今月の歌舞伎座は「仮名手本忠臣蔵」の通し。

今年は松竹創業百三十周年だそうで、随分早い段階で歌舞伎の三大名作「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」を今年中に上演する事が発表されてました。その第一弾ですね。

さすが松竹百三十周年記念公演で、大星由良之助、塩冶判官、高師直、早野勘平、お軽など主要な役をダブルキャストで上演するのは今までにない画期的な興行だと思います。
先日Aプロの昼の部を拝見しました。
口上人形が昼夜の配役を述べるところから始まって、天王立(てんのうだち)という特殊な鳴物に四十七の柝を打ち込んで幕が開くという儀式性の高い「大序」を見るにつけ、確かにここにも守るべき日本があると感じます。
今回拝見していて色々と考えたのは「四段目」の「塩冶判官切腹の場」です。この場は江戸時代から「通さん場」と言ってお客の途中入退場を止めたといいます。今月の歌舞伎座でも一応告知の上客止めされているようです。
何故「通さん場」だったか?
塩冶判官(言うまでもなく実録の浅野内匠頭)の切腹を正面切って見せるというシリアスな場面である事と、その後の葬送儀礼を描くのに兎に角静かな場面が続くからですね。
幕が開くと足利殿からの上使が到着。切腹の申し渡されがあってその場で切腹の場が設けられます。国家老大星由良之助(大石内蔵助)が国元(伯耆国、今の鳥取)から早馬で駆けつけるのを待って、高師直(吉良上野介)への恨みを述べ更に仇討ちの依頼をしたい塩冶判官はなるべく時間を稼ぎたい。しかし中々現れない由良之助。ところが芝居は中々上手く出来ています。判官が諦めて刀を腹に突き刺した途端に由良之助の登場です。上使の前なのであまりお生なことは言えません。判官が由良之助を側に寄せて言ったのは「この九寸五分(腹切刀)は汝へ形見、かたみ(き)じゃぞよ。」のみ。
形見(かたみ)に敵(かたき)を掛けて「み」と「き」の中間で発音するなんて口伝があるそうですね。
今際の際の判官にそれだけ言われた由良之助は即座にその意を察して、判官の耳元で「委細」とだけ答えてポンと胸を打ちます。任せとけってことですね。
同じ部下を持つならば、こんな部下を持ちたいものです。
さて、判官が息絶えた後は御菩提所光明寺にご遺骸をお移しする前に、経机を持ち出して簡易的な葬送儀礼を行います。まず御台所の焼香に始まって上席家老の斧九太夫、続いて国家老の大星由良之助、最後に諸士頭の原郷右衛門が居並ぶ諸士に代わって名代で焼香します。この間、焼香の為に経机まで歩を進める音と、時々間を埋めるために弾かれるカラ二(三味線の二の糸の開放弦)の音だけが聞こえる、深い静寂が劇場を包みます。毛筋一本針一本落としても音が聞こえるのではないか?もしここで携帯の着信音やアラーム音でも鳴らしてしまったら多分生きては帰れないだろうと思う程の静寂です。
しかしこんな芝居は他にはないですね。まるで塩冶判官の葬儀に参列しているようなものです。観客は皆この芝居なのか何なのか分からないセレモニーに身を委ねています。
これは一つには俗に判官(ほうがん)贔屓と言われる弱者に対する日本人の優しさがそうさせるのではないでしょうか?
史実と違い芝居の忠臣蔵は容赦なく勧善懲悪に徹して、観客全員が塩冶判官に同情するように出来ています。場内水を打ったような静けさの中、無念の思いを残しながら逝った若き大名の死を、劇場全体で悼む事が出来るのは日本人だけではないでしょうか?
さてその切腹の為に設られるのは…
本畳を二枚裏向きに敷きその上に白布をかけて、四隅に小さな青竹の筒に入れた樒を置きます。
私は長い間あの樒は何の為に置くんだろう?と思ってました。
実は切腹の作法などを調べてみても、畳を裏に敷いて(T字型に敷くのが本義ようですが)白布をかけるというのは出てきても、樒の話は出てこないんですね。どうもあれは芝居の中だけのお約束のようです。
樒と言えば我々密教を学ぶ者にとっては必需品です。お茶人さんはお茶を始めたら庭に椿と槿(むくげ)を植えろと言いますが、密教行者ならまずは樒を植えなくてはいけません。
樒は一説には鑑真和上が日本にもたらしたと言われますが、どうもそれ以前にも自生していたようです。古来より佛前墓前に供える習慣がありましたが、密教では時花の代用として六器に入れて行法に使用します。因みに今している智証大師流では一座につき房花(ぼうけ)八房、一日二座すると十六房必要で、中々の消費量になります。
この樒が何故仏教に取り入れられたのか?
それは独特の香気と人間も死に至らしめる程の毒性でしょう。
壇の準備で房花を取ったり葉を割ったりするとやはり不思議な香気が漂います。智証大師流の護摩では今でも樒の葉を乾燥させて細かく砕いたものを「末香」として炉中に投じますが、カリカリに乾燥させた樒の葉でもそれを手で砕くと途端に香気が辺りに立ちのぼるようになるので不思議です。また弘法大師は樒の葉をその形状から青蓮華(しょうれんげ)に準えて密教に取り入れたと言われます。こうした香気と形状から供花の代用として仏教では重用されるようになります。
一方毒性については特に実の毒性が強く、植物で唯一「毒物及び劇薬取締法」において「劇物」指定を受けています。有毒成分はアニサチンという神経毒で植物毒としては最強だそうでです。恐らくこの香気と毒性を利用して仏教の葬送儀礼で「魔除け」として機能させたのではないかと推測します。
私は見た事は無いのですが、関西のご葬儀には会場の門に「門樒」という大型の樒飾りが置かれるようです。また祭壇の左右に飾られる「二天樒」など供花の意もありましょうが、「門樒」と「二天樒」をもって結界とするという考え方もあるようです。
するとあの忠臣蔵四段目の切腹の場に置かれる四隅の樒は、これから自刃する者を魔から守る結界と解釈出来ようかと思います。
また、切腹の故実を調べていると大変興味深い話に行きあたります。
江戸時代、大名の切腹は忠臣蔵四段目の如く座敷内で行われたものらしいのですが、浅野内匠頭は幕府の意向で庭先での切腹となりました。こうした庭儀の場合、一万石以上の高位の者の場合は六間四方、それ以下の者には二間四方の竹矢来による囲いが巡らされ、更にその囲いに白幕を張り四隅に旗を立てたといいます。そしてこの囲いに南北に二門が設けられ、南門を修行門、北門を涅槃門としたといいます。切腹人は涅槃門から入り北面もしくは西向きに座り、介錯人は修行門から入るのを古法としたといいます。
修行門と涅槃門は胎蔵曼荼羅の第三重や金剛界曼荼羅の一印会、四印会で説かれる四門(発心門、修行門、菩提門、涅槃門)の中の南北の門をいいます。この発心〜涅槃は言うまでもなく仏道修行の階梯をあらわして四轉と言われます。
また竹矢来の四方に旗を立てるのも、密教行法における道場観の地結(結界の為に打ち込む杭)や採燈(柴灯)護摩の結界に用いられる御幣などを想起させます。
更に、これから死に赴く切腹人が涅槃門から入り、この後も現世を生き続ける介錯人が修行門から入るというのも頷けます。切腹人の座る向きも北面するのは息災立の本尊に向かう意と取れますし、西向きは即ち西方極楽浄土に臨むという事でしょう。
武士の切腹はその理由が断罪や引責であっても、あくまでも誉れ高い行為でした。それを魔事無く成就させる為に、また切腹人が自刃とは言え死後迷う事が無きようにとの思いから、切腹の場を曼荼羅に見立てた思うのは僻目でしょうか?
してみると忠臣蔵四段目の四方の樒も単なる結界以上の意味があるのかも知れません。
少し長くてなってしまいました。
この辺で失礼します。