歌舞伎座は客席の不具合を修復するために14日夜の部から17日まで公演中止となり、18日の休演日を挟んで19日が返り初日となりました。

今月は新作が二演目出ていて中々意欲的な興行だと思います。

夜の部を拝見しました。
私が最も印象に残ったのは意欲的な新作ではなく、尾上右近さんの「春興鏡獅子」。

いいポスターですね!
右近さんは最近本当によく色々なメディアに出ていらっしゃいますね。テレビは勿論のこと、ミュージカルや声優のお仕事もこなされてますが、そうした中で父祖伝来のガチガチの古典で良い成績を残すのは素晴らしいと思います。
右近さんは清元節の家元、清元延寿太夫さんの御次男で、世間一般では母方の祖父が鶴田浩二さんである事を取り上げられますが、歌舞伎が好きな方々とっては、父方の曽祖父が大正から昭和初期に活躍された名優六代目尾上菊五郎である事の方が重要ですね。
梨園はとかく血筋を重要視しますが、江戸時代からきちんと血筋が連続しているお家は実は少ないんですね。養子を取ったり弟子が継いだりしている事が多い中、菊五郎家の音羽屋の血筋は化政期の三代目菊五郎以来連綿と続いています。現七代目菊五郎さんはお父様がご養子でいらしたのでここは繋がっていないんですが、右近さんのように六代目さんの御令嬢の婚家の系統で繋がっているのは、他に勘九郎、七之助の御兄弟がそうですね。
因みに右近さんのお兄様、清元斎寿さんは、今年の大河ドラマで「清元指導」とクレジットされて、ご本人も時々お三味線を弾くシーンに出演されてましたね。御兄弟でのご活躍喜ばしい事です。
さて「春興鏡獅子」のルーツを辿ると、能の「石橋(しゃっきょう)」に辿り着きます。
能の石橋の舞台は中国清涼山。慈覚大師も訪れた文殊菩薩の霊地として名高い五台山であろうと思われます。寂昭法師(平安中期の実在の天台僧)がその清涼山に赴き、文殊菩薩の浄土があるとされる山中に分け入るために長細い石橋を渡ろうとすると樵(きこり)が現れて、余程の修行を積んだ者でなくては渡れないからと止められる。更にその橋の袂で待っていろと告げて消えてしまう。言われた通り暫しの間待っていると、文殊菩薩の奇瑞で獅子が現れて牡丹の花が咲き乱れる中その獅子が勇壮に舞うというお話。
この能の「石橋」を元として、清涼山(歌舞伎の場合天竺清涼山とされる場合あり)、石橋、牡丹、獅子などをモチーフとして歌舞伎では多くの作品が作られ、「石橋物(しゃっきょうもの)」と言われる作品群をなす事になります。「春興鏡獅子」はその掉尾を飾る作品と言えます。
「春興鏡獅子」は明治26年九代目市川團十郎が初演。九代目團十郎はこの一度切りしか演じていないんですが、それを大正期に六代目菊五郎が受け継いで当たり役にしてから、團十郎家の成田屋の系統よりも、むしろ菊五郎家の音羽屋の系統で大事にされてきた演目ですね。六代目菊五郎の鏡獅子は小津安二郎による記録映画が残っていて、右近さんはそれを観て役者になろうと心に決めたと語っています。
そんな右近さんの鏡獅子は、この舞台に至るまでの間に一体どれ程の稽古を重ねて来たのだろうかと思わせるもので、やはり六代目の外孫にあたる亡くなった十八代目勘三郎さん以来、この難曲もやっと次代に繋ぐ優が現れたと思わせる舞台でした。勘三郎さんと右近さん、共に六代目のお血筋で、共に映画に残る六代目の鏡獅子を尊崇し追慕し挑戦してきた結果であろうと思います。
舞台は千代田城大奥。正月の鏡開きに先駆けて行われていた「お鏡曳き」という行事の余興に、将軍家の所望でお小姓の弥生が、茶の湯をしていたところを無理矢理に引き出されて踊り始めます。つまり観ている観客は即ち皆将軍家という事になります。
やがて舞台上手に祀ってあった手獅子を手に取ると、不思議やその手獅子に宿る獅子の精が覚醒して勝手に動き出し、やがて弥生はその手獅子に引きずられる様に花道を入って行きます。拵えを変える間胡蝶の精による踊りで繋ぎ、後シテはその手獅子の精霊と思われる獅子の精が勇壮に舞い納めます。
この「鏡獅子」は九代目團十郎による歌舞伎を高尚化しようという試行錯誤の中で産まれた作品で、従来の石橋物とはやはり少し違います。従来の石橋物は後シテの獅子の舞になると、それまで廓や御殿の中で踊っていても場面自体を清涼山の石橋に転換していたものと思いますが、鏡獅子の場合はあくまでも千代田城の大奥のままなんですね。なので初演当時は古い批評家に、「大奥にライオンが出てくる訳で、さぞ大騒動になったものと思われます。」と皮肉られています。かなりシュールな設定と言わなくてはなりません。しかし今やそれを指摘する人は誰もいません。
さて、幕開きに家老と用人のセリフの中で、件の手獅子の事を「このお獅子は文殊菩薩の霊夢によって殊の外上様ご秘蔵の品なれば」と説明しています。このセリフから推測するに、この手獅子が将軍家の許に到来した時などに将軍家が文殊菩薩の霊夢を見た、という事ででもあろうかと思います。
聖武天皇は中国五台山で文殊菩薩から三解脱門を授かる霊夢を見たと言いますが、将軍家は如何なる霊夢を見たのか?
それに関しては全く触れられていません。
そもそも早稲田の演博所蔵の初演本と思われる台本にはこの文殊菩薩の霊夢の件さえなく、恐らく大正期に六代目菊五郎が頻繁に演じるようになってから、オカルトチックな手獅子の不思議を説明する為に追加されたセリフであろうと思われます。
今回右近さんの鏡獅子を観ていて思ったのは…
前シテの弥生が手獅子に引きずられて花道に入って柝が入ると、この時もう既に世界観は千代田城から離れていて、これ以降の胡蝶の舞と獅子の舞こそが実は将軍家の見た文殊菩薩の霊夢であったかもしれないと言うことです。
獅子は百獣の王とされ、仏教の中にもその勇猛さを以って難解難行も怯弱なく対治する勢いの象徴とされます。またそれ故に大日如来をはじめ多く如来の所座を獅子座といい、佛部のみならず、文殊菩薩は甚深般若に通達し大日と同体とされ、特に息災の三昧に住す八字文殊の儀軌で騎獅の像容が説かれています。釈迦三尊では象に乗る普賢と共に対照的に文殊の騎獅像が造られ、単独像でも騎獅像が一般的になっていったものでしょうか?
能の石橋の場合、獅子を文殊の眷属のように扱って、獅子の出現が即ち文殊菩薩の奇瑞であるとするからは、この話をある種の仏教説話と捉える事も出来ようかと思います。
しかしそれが一旦歌舞伎に取り入れられると、仏教的な要素よりも理屈抜きに派手なショーとして受容されるようになります。それが明治の御代になり、九代目團十郎の高尚癖が千代田城で石橋の獅子の舞という奇天烈な場面を産みます。しかしこれを先にも言いました通り将軍家の見た文殊の霊夢と思えば、或いは歌舞伎が捨て去ってきた石橋の仏教的な要素もまた見てとることが出来るようになるのではないかと思うのです。
右近さんの鏡獅子を観て、一人の仏教徒として歌舞伎の石橋の舞に文殊の奇瑞の復活を希わずにはいられませんでした。
右近さんはまたまだお若い。この先どれ程この鏡獅子を深化させていかれるのか、楽しみであります。